2013年

4月

15日

井上ひさし『吉里吉里人』

時代は1970年ごろ。日本政府に嫌気がさした東北のとある村が日本からの独立を宣言する。その名は吉里吉里村。人口は5000人にも満たないほどの小さな村。ズーズー弁によく似た吉里吉里語による独立宣言はとても本気のものだとは思えない。しかしどうやら吉里吉里人たちはいたって大真面目に日本国からの独立を果たそうとしているようだ。とはいえあくまで田舎のさびれた一つの村が一国として独立などできるはずがない。事態の収束も時間の問題だろうと誰もが考えた。が、一向に独立騒動は収まらない。むしろその独立が徐々に現実味を帯び始める。
というのがこの物語のあらすじです。

この小説は一般にユーモア小説と称されることが多い作品です。もちろん今述べたあらすじの表面だけをなぞってみればたしかに荒唐無稽なように感じるかもしれませんし、本文中には何か所もくすっと笑わされるようなところがあります。そういった点を捉えて見れば確かにユーモア小説と呼んでも間違いではないでしょう。しかしこの小説の本当に優れている点はそういった部分ではありません。
この小説の最大の特長はその圧倒的な情報量とリアリティなのです。

小説内では吉里吉里村ならぬ吉里吉里国に関する描写がこれでもかというほど細かいところまでなされています。例えば物語序盤に登場する吉里吉里語修得のための小冊子はその内容が克明に記されており、さながら実際の語学書のようです。
小説を読み進めていき、吉里吉里国についてどんどん詳しくなるにつれてまるでこの国が実在するかのように思えてくるでしょう。
また、吉里吉里国が日本からの独立を果たすために抱えていたいくつもの切り札的作戦はいたって現実的かつ効果的なものばかりで強い説得力を感じさせるだけでなく、反面どれも日本社会の問題点を鋭く示唆するようなものにもなっていて現代でも続くそれらの問題について考えるきっかけを与えてくれます。
そんなすさまじい設定の数々と説得力ある迫真性に支えられながら繰り広げられる、ある種の壮大な思考実験とも言える本作は、誰もが唖然とするであろうエンディングに至るまで軽やかに、かつ重層的に展開され続けていきます。
文庫本にして三冊にも渡る大作ですが、作中で経過している時間はたったの2日だけ。読み終えるころには改めてこの作品の濃密さを思い知らされることでしょう。

ちょうど4月20日から神奈川県にある神奈川近代文学館展示室で井上ひさし展が開かれるようです。この展示は6月9日まで行われるそうなので、井上ひさし作品に興味を持った方はそちらにも足を運んでみてはいかがでしょうか。

『吉里吉里人』

井上ひさし 
新潮社 1985年9月

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2013年

3月

23日

小泉陽一郎「ブレイク君コア」

これまで紹介してきた本はどちらかといえば少し昔の本が多かったのですが今回紹介するのはいたって新しい作品です。タイトルは『ブレイク君コア』。
この小説は新進気鋭の出版社である星海社の星海社FICTIONSから出版されています。今回はこの作品についてだけでなく、その出版社のシステムについても少しお話ししたいと思います。

 

星海社は2010年の春に設立された出版社です。そしてこの出版社のなかでも特徴的なのは、星海社FICTIONS新人賞という年に三度開かれる新人賞なのです。
一 般的な新人賞には「下読み」というステップがあります。まず賞に届いた作品を編集者以外の評論家やライター、新人作家などといった人たちが読み、ある程度 の数まで絞る作業の事です。しかしこの星海社FICTIONS新人賞では「全ての応募原稿を、読むプロである編集者が直接読む」というシステムが採用され ています。このシステムの元になっているのは星海社副編集長である太田克史さんの出身母体、講談社のメフィスト賞です。

 

メフィスト賞とは90年代中ごろに創設された賞であり、現在の文芸の一つの流れを作っている舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新といった個性的な作家たちを数多く輩出している賞です。このメフィスト賞がそのようなシステムになったきっかけとしては作家、京極夏彦の存在があります。京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』はもともとは持ち込みの原稿でした。この小説はそれまでの新人賞では受け付けられない膨大な枚数、そして賛否の分かれる強烈な個性を持った作品であり、新人賞などでは下読みの段階ではじかれていたかもしれなかったのです。しかしこの作品による京極夏彦のデビュー成功によって、投稿作には編集者が全て目を通すという異例のシステムが立ちあがったのです。

 

そして今回取り上げた『ブレイク君コア』は、そんなメフィスト賞の流れを受け継いだ星海社FICTIONS新人賞の第一回受賞作なのです。物語の舞台は福島。片思い中の憧れの女の子との下校中、彼女が突然トラックに跳ね飛ばされてしまいます。すると彼女の肉体には別の人格が入り込んでしまうのです。人格交代モノのお話はわりとありふれていますが、著者の若さからくる独特の勢いと斬新なひと工夫で最後まで楽しく読めます。めまぐるしく入れ替わる人格に揺さぶられる主人公の恋愛観に読む私たちも煩悶させられていきます。
この作品はもちろん紙の本で出版されていますが、星海社が運営しているWEBサイト「最前線」でその全文を無料で読むことができます。

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2013年

2月

25日

J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」

“phony”

全世界で6000万部もの累計発行部数を記録している本作品。その原文にはこの単語が何回も登場します。日本語での意味は「インチキ(な)」。邦訳版の文中にはもちろん何度も「インチキ」という言葉が出てきます。
この物語はひとことで言えば一人の少年がひたすら、世の中に満ちた「インチキ」にケチをつけていくだけというストーリーなのです。

本書の主人公であるホールデンは下宿しながら高校に通う16歳の高校生。しかしクリスマス直前に学業不振で退学になってしまいます。そんなホールデンは寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを3日間放浪します。

この作品の大きな特徴の一つは口語体で書かれた文章であるという点です。主人公のホールデンが、自らの放浪の旅で経験した事柄を読者に語るという形で物語は進んで行きます。しかしその言葉の中には口汚いものも多く、旅のなかで出会う人々のことをこき下ろしてばかり。それゆえに物語にはこれといった筋はなく、起承転結というものが明確に存在するわけでもありません。ときには支離滅裂でめちゃくちゃな場面も存在します。名作小説を読むぞ、と意気込んでこの作品を手にとると少し驚いてしまうかもしれません。
しかしこの作品が名作たるゆえんは、文章の美しさでも、ストーリーの素晴らしさでも、結末の意外性でもなく、とにかく主人公に共感してしまう、という所です。
すこしでも「自分はひねくれている人間かもしれないな」という自覚のある人は、この本を読み終わるまでに何十回とホールデンに共感してしまうのではないでしょうか。

「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」
これは放浪の旅の終盤、ホールデンが妹のフィービーに言われた言葉であり、同時に物語を象徴する言葉でもあります。
この作品にはいわゆる“エキサイティング”なシーンも“ファンタスティック”なシーンも一切出てきません。ただ一人の“純粋無垢なひねくれもの”の少年が延々と“インチキ”に満ちた周囲に対する愚痴を述べていくだけです。すばらしい少年時代を過ごしてきた、あるいは過ごしている人にとってはこの本は退屈でいらいらするだけかもしれません。しかしそうではなく、社会や周りの人々に対して何かしらの不満を抱き続けてきたような人にとってはバイブルと言えるほどの愛読書になることでしょう。

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2013年

1月

26日

ピアズ・アンソニィ「魔法の国ザンス カメレオンの呪文」

魔法。それはだれしもが一度は夢見るものであり、だからこそそれを扱った創作物はこの世に数多く存在しています。


今回紹介する「魔法の国ザンス」もそのひとつ。ファンタジーの本場イギリスで生まれ育った小説家、ピアズ・アンソニィによるシリーズもののファンタジー小説です。海外のファンタジー小説というと「ハリーポッターシリーズ」が有名ですが、この作品はそれに負けず劣らず魅力的な作品であるとして高い評価を受けています。

 

物語の舞台はタイトルにもなっている、魔法がすべてを支配する異世界ザンス。この世界に生きる者は全てが魔法を使えるかもしくは生き物自身が魔法的な存在なのです。そして人間が使う魔法には一つたりとも同じものはなく、何の役にも立たないようなものから強力なものまで千差万別。しかし25歳を過ぎても魔法の力を持たないものはマンダニアと呼ばれる魔法の無い世界へと追放されるという掟がザンスには存在します。

第一作「カメレオンの呪文」の主人公はもうすぐ25歳の誕生日を迎えるというのに一向に魔法の力が現れない青年ビンク。ザンスを追放されてしまうことを恐れたビンクが、自らの魔法の力に関する答えを求めて知識の魔法使いハンフリーのもとを訪れる旅を決意するところから冒険は始まります。しかしもちろんビンクに魔法の力が無いわけはありません。ビンクの魔法の力とはいったい何なのか。それが明らかになっていく中で登場する様々なキャラクターはどれも魅力的で、この作品が他のファンタジー作品とは違ってキャラクターそのものに焦点を当てていることが分かります。

 

また、このシリーズの大きな特徴としてしばしば挙げられるのが「駄洒落」です。駄洒落や語呂合わせといったユーモアが作品のさまざまな部分に散りばめられており、この作品の根幹自体にも駄洒落が組み込まれているのです。もちろん作品のオリジナルは英語で書かれているわけですが、このシリーズの翻訳を担当している山田順子さんの名訳により、その駄洒落の妙が日本語でも違和感なく楽しめるようになっています。

当初は3部作として開始されたこのシリーズは、好評であったがために予定を変更して続けられ、現在はなんと35巻まで出版されており、日本でも21巻まで翻訳されています。これだけの量があるため、普段気に入った小説を見つけた時に抱きがちな「もっと楽しみたい!」という欲を必ずや満たしてくれることでしょう。

英国幻想文学大賞も受賞したユーモア・ファンタジーの傑作「魔法の国ザンス」シリーズ、一度はまってしまうと長い旅になってしまうことをご忠告しておきます。

      (中川)

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2012年

12月

22日

星新一『声の網』

世に小説好きは数あれど、星新一を読んだことが無い者はいない。

 

というのは僕が常々提唱している説ではありますが、おそらく当たっているのではないでしょうか。きっとみなさんも星新一の作品を一度は読んだことがあると思います。

 

星新一の作風として有名なのが言うまでもなく「ショートショート」という形態でしょう。

ショートショートとはその名の通り非常に短い短編小説のことを指すのですが、星新一はショートショートの神様とも呼ばれ、1000作以上ものショートショートを遺したことは世に広く知れ渡っています。

しかし今回僕が紹介するのは、その有名な「ショートショート」とは少し違った作品である、『声の網』です。

『声の網』は星新一作品に多く見られるそれぞれの話が独立した短編集ではなく、いくつかのお話を連ねて一つのことを描き出す、短編連作の小説です。

この物語は12の話からなっており、とあるマンションの1階から12階までそれぞれに住んでいる人々に起こる出来事が描かれます。物語の時代は近未来、電話に聞けば何から何まで教えてくれ、それだけでなくお金の払い込みからジュークボックス、診療サービスまで電話一本でできる世界です。そして物語はマンションにの住人たちに不思議な電話がかかってくることから始まっていきます。

これまでの説明で何か気づきましたでしょうか。

 

そう、この世界の「電話」とは、今私たちが当たり前に利用している「インターネット」に非常に似ているのです。

何でも教えてくれる検索エンジン、種々のサービスが家に居ながらにして受けられる機能、まさにインターネットそのものです。

では、ここで少し不思議に思うことはないでしょうか。

星新一は少し昔の小説家。あれ、インターネットっていつからあったんだっけ…?

 

この作品が発表されたのは1970年。一方そのころインターネットはというと、まだまだ開発途中であり、個人が利用できるには程遠い状況でした。今日のようにインターネットが全世界に普及し始めるのは2000年ころからであり、この作品が発表された1970年には、人々の日常生活にインターネットなどというものは存在していなかったのです。

つまり星新一は、今から40年以上前、インターネットが普及し始める30年以上も前にこの『声の網』でやがて訪れるインターネット社会を、驚くほど正確に予見していたのです。

星新一作品を好きな人には、「オチが面白い」「話のアイデアがすごい」という人が多くいると思いますが、僕が思う星新一の本当に恐るべき魅力とは、その「先見性」なのです。

 

物語の終盤で、とある人物がその社会(ないしは世界)について自身が思いついた考えを友人に語ります。彼はそれを「帰巣本能的な文明論」と名付けますが、それはまさに40年以上の時を隔てた現代社会への警告ともとれるほどすさまじい内容のものであり、もしかすると不気味にすら感じてしまうかもしれません。本作品では表だって何か大きな事件が起きたり、あっと驚くような結末が用意されていたりということはないのですが、きっとどんな波乱万丈な作品にも負けないくらい、心が揺さぶられてしまうことでしょう。

 

誰もが慣れ親しんできた星新一の違った一面でもある、もはや予知能力とでも言うべき「先見の力」に触れてみてはいかがでしょうか。

(中川)

 

『声の網』 星新一

角川文庫 改版初版20061

 

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2012年

11月

21日

森見登美彦『恋文の技術』

みなさんは、「手紙」という物を書いたことがありますか?

もしかすると今10代くらいの年ごろの人には、ペンを使い、紙に書くような「手紙」は一度も書いたことが無い、という人も多いのではないでしょうか。

かくいう僕自身、きちんと手紙というものを書いた回数はおそらく二ケタにも満たないのではないかと思います。

多くの人が手紙を書かなくなった原因としてはもちろん、「携帯電話などの発達と普及、電子メールの浸透」などが挙げられます。従来の手紙より圧倒的に早く、楽なメールが手紙に取って代わったのも当然の流れだと言えるでしょう。

 

そんな中、少し前に、「最近の子供たちは、幼いころから大量にメールを打っているため、文章力が鍛えられている」というある専門家の方の言葉を聞きました。

果たしてそうでしょうか。僕はそうは思いません。

例えば、長い文章を書くことがマラソンを走るようなものだとするならば、メールを打つというのは10mかそこらの距離を小走りする程度のものだと思います(もちろん長くきちんとしたメールの場合は別かもしれませんが)。普段のメールなどでは、文章を書く力というものは鍛えられることはないように感じるのです。

 

前置きが長くなりましたが、今回僕が紹介する本は、森見登美彦著、「恋文の技術」です。

今や森見登美彦は人気作家として名高く、中でも代表作と言われる「夜は短し歩けよ乙女」や「四畳半神話大系」などは読んだことがあるという方も多いでしょう。彼の作品の特徴としてしばしば挙げられるのが「大学生の心情を巧みに描く」という点ですが、この「恋文の技術」にはその特徴の他にもう一つ、大きな特徴があります。それは本文のほぼ全てが、主人公によって書かれた誰かへの手紙である、という点です。

 

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2012年

10月

21日

新世界より

 

「このクラス、あの農場に似てるわ。ほら、和貴園で見学に行った」

和貴園という小学校を卒業した渡辺早季は、進学した学校のクラスに対して、こんな感想を同級生に漏らす。

物語序盤、彼女は、クラスの同級生たちが学校から家畜のように管理されていると感じたのであった。

 

本作は、ジャンルとしてはSFやファンタジーに属する作品である。しかし、著者の貴志祐介はこれまでにホラーやミステリーといった部類の作品を多く執筆し、かつ数々の賞を受けてきた作家でもある。そういった経験を持つ作家によるものであるためか、この作品の持つサスペンス性は非常に高く、読み進める間中ずっと、どこかに宙吊りにされているかのような不安心を掻き立てられるのが特徴である。

物語の舞台は今から1000年後の日本。しかしその姿は、しばしばフィクションで語られるような科学の発展目覚ましいテクノロジー社会というわけではなく、むしろどこか牧歌的なまでに自然に囲まれており、未来的というよりはある種、古き良き日本、といった趣を感じさせる。一体なぜ文明はそのように逆行してしまったのだろうか。

今我々が生きるこの世界と地続きであるはずの1000年後の世界に至るまでに、果たして何があったのか。この謎こそが、本書の中で徐々に明かされていく重要な事実なのである。

 

私たちの世界と、1000年後の世界との間にある大きな違いの一つが“呪力”の存在である。

呪力とは一種の念動力(サイコキネシス)のようなものであり、手を触れることなく、対象に様々な働きかけを行うことのできる力である。1000年後の世界ではほとんど誰しもがこの能力を使いこなしている。

さて、もしも自分にそのような力があれば、あなたならどのように使うだろうか。

仕事のために使う人もいるだろうし、面倒な家事を片づけるために使うという人もいるだろう。中には、誰かを傷つけるために使う、という人もいるのではないだろうか。

しかし、この1000年後の世界では誰かを傷つけるというような残忍非道な使い方をするものは誰もいないのである。

 

物語の序盤から、主人公である早季を含めた子供たちは、やや過剰なまでに非道徳的な行為に対して嫌悪感を表し、それを強く否定する。この未来の世界では、私たちが現代社会を生きる上で日々遭遇し、仕方なく折り合いをつけているささいな“非道徳的行為”すらも激しく忌避されることのようである。

 

子供たちのその感性は教育によってに刷り込まれる。学校に通う子供たちは、呪力を使えるようになる前の幼いころから繰り返し倫理を説かれ、正しい道徳規範を身に付ける。その陰で、まれに現れる性格に欠陥のある者は排除され、誰の記憶からも消し去られる。そうして学校に管理されながら、子供たちは成長していくのである。

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