第3章 近年の児童書に見られる「主人公のお姫さま化」について

 

 この章で論じるのは、児童書の「ライトノベル化」とりわけソフトカバー児童書におけるトレンド変化の考察です。


 前章のお二方が指摘したとおり、ゼロ年代の中盤ごろからソフトカバー児童書の分野で、マンガ・アニメ系のイラストを起用した「ライトノベル風」の作品が数多く刊行され出したといった動きが「ライトノベル化」言説が起こったきっかけです。

 

 前二章では、イラスト及びキャラクター設定のアニメ・マンガ系へのシフトを、出版社、作家の動向を追うなかで紹介がされました。そこで、最後に私が指摘したいのは、作品の内容面、特に物語構造のレベルでの読者の嗜好の変化になります。 

 

 ひと口に「ライトノベル化」と言っても、単にアニメ・マンガ系へのイラスト・キャラクター設定の変化は、すでに90年代から徐々に起こっていたと前章で述べられました。 そのなかにあって、現在のソフトカバー児童書の分野でトップの人気を誇り、ライトノベル化した作品の代表とされるのが『妖界ナビ・ルナ』『若おかみは小学生!』『黒魔女さんが通る!!』の三作です。

 

 上記の作品は、イラストとキャラクター設定がマンガ・アニメ的な「キャラクター小説=ライトノベル」と形容できる作風であることはもちろんのこと、そのほかにもう一つ、それまでの児童文学とは趣の違う「ライトノベル的」と言える特徴があります。

 

 児童文学のひとつの潮流として、かつての少年探偵団、ズッコケシリーズのように「みんなで一緒に事件を解決する」という作劇は、ながらくエンタメ児童書のトレンドであり続け人気を博してきました。 実際ライトノベル化黎明期の青い鳥文庫やフォア文庫でも、『タイムスリップ探偵団』や『マリア探偵社』などの作品ではこの構造が採用されていますし、同一構造の作品は現在でも数多く存在します。

 が、近年特に人気を得ている『ナビ・ルナ』、『若おかみ』、『黒魔女さん』ではそれらの作品とは異なり、「事件を解決する私をみんなが助けてくれる」という構造が採られているのです。 上記の三作品では、

 

   主人公の女の子に人外の友だちが複数人いて、さまざまな理由で主人公だけを特別扱いする

 

 このような特権的な立場に主人公が置かれる、という共通の特徴があります。

 かつての児童文学作品では、友だち同士で協力し合うことはあっても、お互いの関係性は横並びで「主人公だけ特別に周りからちやほやされる」という構図はあまり見当たりません。

 

 また、三作品に登場する友だちは、妖怪、ユーレイ、魔女といった存在であり、主人公以外には正体が知られていないか、他者とは物理的な接触が困難なように設定されています。そのことによって、主人公は独占的に友だちの協力を得られるポジションに置かれる、という構図になっているのです。

 これが私の呼ぶところの、児童書における「主人公のお姫さま化」という状況になります。

(お姫さまタイプの作品はひとりの友だちとの出会いからはじまって、巻をかさねるごとに友だちの人数が増えていくパターンが多い)
(お姫さまタイプの作品はひとりの友だちとの出会いからはじまって、巻をかさねるごとに友だちの人数が増えていくパターンが多い)

 

 実はこのような構図は、ライトノベルでは定番の「主人公とヒロインの関係」に酷似しています。ライトノベルでは、

 

 中高生くらいの男子主人公のもとに、ある日とつぜん美少女が現れて主人公のことを好きになり、美少女の背負う特殊な運命に絡んで主人公自身も特別な存在として扱われる

 

 という、ヒット作の雛型があります。

 代表的な作品としては『涼宮ハルヒの憂鬱』、『灼眼のシャナ』、『とある魔術の禁書目録』など、数え上げるときりがなく、現在のライトノベルで主流の作品は、ほとんどこの雛型のバリエーションと言っても過言ではありません。

 主人公の性別、年齢こそ違いますが、「主人公が他者から特権的な扱いを受ける」という関係性において、ふたつのジャンルのヒット作には共通性が見て取れます。

 『ナビ・ルナ』あたりのヒットを起点に、児童書がライトノベル化したと言われていますが、構造レベルでもこういう図式を持った児童書が増え、より支持を受けているように感じられます。

 さらに興味深いことに、ライトノベルにおいてもこのような構造の作品が目立ち始めたのは、ゼロ年代に入ってからなのです。(物語の構造自体は80年代の「うる星やつら」が源流ですが、ライトノベルで主流になったのは学園モノが流行しはじめて以降)

 

  こういった変化に気づいたきっかけは、大塚英志氏の著書「物語の体操」の一節で紹介された、80年代の長編小説群をめぐる蓮實重彦氏の論考でした。

 蓮實氏は、文芸評論『小説から遠く離れて』のなかで、80年代を代表する個性的な長編小説が書き手の世代も方法論も全く異なるにも拘わらずまるで示し合わせたように「同じ物語的な構造」へ収まっていることへの困惑を表明し、『吉里吉里人』『コインロッカー・ベイビーズ』『裏声で歌へ君が代』『羊をめぐる冒険』を具体例としてあげました。 それを踏まえて、大塚英志氏自身も下記のような見解を述べています。

 

 

無論、蓮實重彦が言うようにそれらは決して示しあわせたものでもなければ、誰かが誰かの作品を意図的に盗作したわけでもありません。けれども彼らは結果として単一の物語構造に準拠した小説を書いてしまったのです。(略)ただ、これは小説だけに限ったことではなかったように思うのです。ぼくは別に蓮實の影響を受けたわけではありませんが、それでも当時、高橋留美子の『めぞん一刻』、あだち充の『タッチ』、萩尾望都の『トーマの心臓』といった八〇年代コミックの代表作が「見たところ何の共通点も持たない発想から出発しながらも、作中人物が演じつつある物語的な機能や、果たすべき行為の形態という点で多くの細部を共有し」、同一の物語構造に収斂していくことに気がついてなんだかとても不思議な気分だったことを覚えています。(大塚英志 著「物語の体操」82Pより)

 

 このような、ある時期、あるジャンルにおける流行の雛型を、大塚英志氏は「プチ構造」と呼んでいますが、現在のライトノベルや児童書に見られるヒット作の「同じ物語的な構造」も、まさにこの「プチ構造」であると言えるのではないでしょうか。

 

  では、孫引きになってしまいますが『小説から遠く離れて』で蓮實氏が見出したとされる八〇年代長編小説の構造に倣って、私なりに「お姫さま化」した現代の児童書に共通する構造を抜き出してみます。 

 

 主人公の少女はごく普通の小学生の女の子に見えて、実はちょっとした秘密を持っている。

 

 少女には不思議な力を持った奇妙な友だちがいた。彼らはあるとき、不意に少女のまえに現れ、少女に使命を与える。友だちは人間とは異なる世界に暮らす者たちで、少女以外にはその姿が見えないか、他人には真の姿を隠している。少女には彼らとコンタクトできる能力や資格がひそかに備わっていたのだ。「あなた以外にこの使命は果たせない」そう言われた少女は、はじめは戸惑いを見せつつも、友だちの力を借りながら与えられた使命に取り組みはじめる。

 

 少女は困難に直面しながらも、友だちと一緒に過ごす日々にひそかな安らぎを覚えていた。なぜなら、少女には、両親、あるいは真に心を許せる友だちがおらず、困難に挑むなかで得られる友だちとの一体感が、かけがえのないものになっていたからだ。

 

 だが、どれだけ少女を大切にしてくれる友だちでも、ときおり少女からこころが離れるときがあった。そんなとき、少女は忘れていた孤独を思い出して、寂しさにこころを痛める。そして、再び友だちの関心が自分にむけられると、ホッと安堵の気持ちに包まれるのだ。 やがて使命は、少女の努力と友だちの協力のもとに達成される。しかし、ひとつの使命は大きな目的への道標にすぎず、少女のまえにはまた新たな困難が訪れるのだった。

 

 現在のライトノベル化した児童書のヒット作は、だいたい上記の構造との距離感でヒットの度合いが決まっているように見受けられます。

 

 特に表層的な物語の展開、ジャンル、シリアスやコメディといった作風よりも、読者が支持する指標として重要なウエイトを占めると思われるのが、友だちとの関係性です。 注目すべきは、特権的に友だちを独占するような想像力のなかにあって、

 

 友だちが自分以外の人間に関心を示したときや、自分から関心が離れたとき、主人公が焦燥感を抱く

 

 というエピソードがまま見受けられることです。

『若おかみ』の場合。主人公のおっこは交通事故で両親を亡くしておばあちゃんの経営する旅館に引きとられ、自分にしか見えないユーレイのウリ坊と出会います。ウリ坊は、かつてはおばあちゃんの友だちであり、自分の姿が見えるおっこに「自分の代わりにおばあちゃんの仕事を手伝ってほしい」と頼むというのが物語の発端です。

 

 したがって、物語序盤のウリ坊は主人公であるおっこより、おばあちゃんである峰子ちゃんの方が大事であるような描かれ方がされていて、「ウリ坊にとって自分は二番目」という状況を、おっこは事あるごとに気にかけていました。

 

  また『黒魔女さん』は、間違って呼び出してしまった黒魔女のギュービッドによって、主人公が黒魔女修行を“嫌々”させられるというのが基本ストーリーです。ところが、修行を嫌々させられていたはずの主人公のチョコは、黒魔女試験の最中、ギュービッドが自分のインストラクターを外されたと知らされたとき大変なショックを受け、「ギュービッドがいないと私は何もできない」と涙目で暴れまわり、ギュービッドが自分のインストラクターをやめないと知るや、一転して大喜びしてみせる場面があります。 

 

 さらに『ナビ・ルナ』は、孤児として星の子学園という施設で育てられた主人公のルナが、伝説の子としての運命から悠久の玉を捜す旅に出るという物語です。お供であるもっけとスネリは、親代わりのようにルナの面倒をみますが、その反面ルナは旅先で同年代の友だちができても、すぐに別れなければならない運命から、絶えず周囲からの疎外感を抱いています。

 そして物語の中盤、戦いのなかでもっけとスネリがいちど命を落としたとき、「ひとりぼっちになっちゃった。このまま、わたしも死んでしまいたい」と漏らすのです。

 

  これらの描写は読者の視点に立って考えれば、「友だちには私だけを見てほしい」という願望の投影であり、「充足」と「欠乏」の対置として機能しているんじゃないかと推測できます。 

 それが証拠ではありませんが、『ナビ・ルナ』シリーズと同じ池田美代子先生の作品に『摩訶不思議ネコ・ムスビ』シリーズがあります。

 本作には、主人公“たち”にしか正体を知られていない喋るネコや、超能力といった『ナビ・ルナ』シリーズに通じる物語の要素が含まれています。しかし、主人公格の三人の女の子の関係は旧来型の「みんなで一緒に」タイプであり、特に視点人物である主人公いつみが、他の友だちから特権的に助けられたり、友だちとの関係に深くこころを痛めるような「充足」と「欠乏」の描写は見て取れません。

 『ムスビ』シリーズは、一見すると『ナビ・ルナ』と似通った作品に見えますが、読者の願望充足という観点でみると、「お姫さま化」やそれにともなう「友だちの独占」という欲求には応えていない節があります。

 以前、青い鳥文庫で行われた人気投票でも、本作はそれほど上位にランキングされていなかった印象でしたが、ポイントはやはり「読者の願望の在り処」にあったのではないでしょうか。

 

  それでは、なぜ児童書読者の願望がこのように変化したのか。

  理由はさまざま考えられますが、異なるジャンル、違った読者層にも関わらず、ライトノベルと児童書で「同じ物語的な構造」を持った作品が受けているわけですから、やはり時代的な影響が大きいんじゃないかと推測できます。
 現在の若者は友だち同士の繋がりを気にして関係性が強迫的になり、コミュニケーションが大きな関心事であるという話は良く聞きます。

 であれば、主人公が特別扱いされ周りにちやほやされるような作品に心地よさを感じ、主人公が友だちとの関係にこころを砕くエピソードに共感を覚えるのは、読者の置かれている現実を考えれば道理に適っているように思います。また、児童書であれライトノベルであれ、小説という媒体に接する読者には、嗜好に何らかの共通性があることも考えられます。

 

 以上のことが「お姫さま化」した作品が現在の児童書読者に支持される理由なのではないでしょうか。 

 つまるところ、児童書における「お姫さま化=ライトノベル化」の本質とは、イラストやキャラクター設定以上に、他者や周囲との関係性の描き方なんじゃないかと、これらの状況から窺えるわけです。


(すがり)