2013年

5月

16日

『きみの友だち』重松清

重松清の作品といえば、学生の頃はテストや模擬試験の小説問題でもよく見かけ、クラスメイトにも読んでいる人達が多かったようなイメージがあります。以前このサイトでも『エイジ』が紹介されていましたが、今回私は『きみの友だち』を紹介したいと思います。

 

本作は小学生の時交通事故で足を悪くした恵美を中心に彼女の小学校・中学校のクラスメイトや弟など、恵美と彼女に関わる人々が1章ずつ交代で主人公に置かれ、「きみ」という二人称を用いて第三者の視点から物語が描かれる連作長編です。

友だち、ってどんな人のことだろう?いつも一緒にいるから友だちなんだろうか?「クラスのみんな」は「友だち」なんだろうか?
事故をきっかけにクラスメイトと馴れ合わなくなった子、病弱で学校を休みがちな子、勉強もスポーツもこなすカリスマ的存在の子、逆に何をしても不器用な子、大人しくて控えめな子、転校前にいじめに遭っていた子――教室の中の様々に異なる立場の子が「友だち」とは何かについて向き合います。

二十歳を過ぎた今この作品を読むといかに「友だち」という存在が特別なものだったかを考えさせられました。今思えばクラスメイトとすごす時間は多くても3年かそこらで、クラス替えがあればたった1年しか同じ時を共有しないのです。学生生活が平穏であるために、互いが互いに適当にやり過ごせばいいものを、何故か私達は時に一人を仲間はずれにしたりグループを作ったりしながら、ただの「クラスメイト」でなく「友だち」であろうとする。それはどうしてだったのか、そもそも自分にとってどんな人が「友だち」なのか。大人になるにつれ仕事仲間や同僚は増えても、学生の頃のような「友だち」は増えにくくなります。そうなる前に、高校を卒業するまでに、一度はこの本を読んで「友」について考え、そして今の自分の教室内を見つめなおしてほしいです。

加えて見どころは子ども達の描写のリアルさです。調べるところによると、重松氏は今年で50歳。「きみの友だち」が発表されたのが2005年ですから、当時でも40歳は過ぎていたはずです。しかし作中の子ども達はみな、今中学校や小学校にいてもおかしくないような、クラスに一人はいるよねこういう奴、というような(少し失礼な言い方をすれば)学生時代を疾うに過ぎた人が書いたとは思えないほどリアル感溢れる10代の少年少女の姿です。そういった重松氏の若者描写の巧みさも本作の見所といえるでしょう。

『きみの友だち』
重松清 新潮社 2008年6月

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2013年

4月

23日

湯本 香樹実「夏の庭―The Friends 」

子ども~10代向けの本のレビューサイトの書評であるのに、今までは単に最近自分が読んだ本の紹介でしかなかったことに気付いたので、たまには自分が中学生の頃読んだ本を紹介したいと思います。

「夏の庭」は小学6年生の『ぼく』・山下・河辺の3人の少年と1人のおじいさんの交流を描いた物語です。山下が祖母の葬儀に出たことをきっかけに「人が死ぬ瞬間を見てみたい」と思った3人の少年は、町内で一人暮らしをしている今にも死にそうなおじいさんの家を「観察」しはじめます。しかしなかなか死なないおじいさん。やがて「観察」のことはおじいさんにばれ、3人は最初に怒られこそすれど、いつしか少年たちの一方的な「観察」は次第におじいさんと少年たち双方の交流へと変わっていくのでした。

この物語のテーマはずばり「死とは何か」です。しかしその問いに対する明確な答えが作中で示されているわけではありません。むしろ死とは何かが定義づけされないからこそ、少年たちの視点を通して読者たる私たちそれぞれが死とは何かについて個別の解釈を導き出すことができるのです。その点で物語のテーマは「死とは何か」というよりも「死とは何かについて考えること」と言ったほうが正確かもしれません。
先述のあらすじを踏まえれば最終的に少年たちとおじいさんに死別の時が来ることはある程度想像できるでしょう。確かに、おじいさんは最終的に亡くなってしまいますが、だからといって「おじいさんと男の子たちが絆を深めて死んで別れて感動ね」というだけで終わらないのがこの作品のいい点です。というより、それだけで終わってほしくないという私の願望かもしれませんが。中学生や高校生になると文字数が多くてちょっと難しい本を読むことにも次第に慣れてくると思います。そうなると結末ばかりを気にして、本を読むことで自分の考察を深めるということがおろそかになりがちです。

『死ぬということは息をしなくなることだと思っていたけれど、それは違う。生きているのは、息をしているってことだけじゃない。それは絶対に違うはずだ』
作中の「ぼく」の言葉です。最初は単に人が死ぬ瞬間を見たいという好奇心だけであった少年が、物語を通して少しずつ死ぬこと、そして生きることに対して考えを深めていくこのシーンが印象的です。中高生というのは、大人よりも固定概念にとらわれない柔軟な発想のできる時期だと思います。だからこそ、この「ぼく」の視点を通して死ぬとは何か、逆に生きるとは何か、という点について考え、『考察しながら読み進める』読書を身に着けるきっかけにしてほしいと思います。
そういう点で中高生のみなさんに読んでほしい本です。

『夏の庭-The Friends』
湯本香樹実

新潮社 1994年3月

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2013年

3月

18日

川上弘美『神様』

川上弘美のデビュー作であり本のタイトルにもなった『神様』を含む9つの作品が収録された短編集です。

 

川上弘美の作品といえば以前『センセイの鞄』という2人の男女の日常を描いた話を読んだことがあるのですが、『神様』も主人公の「わたし」の日常を描いています。しかし『神様』における日常は我々読者が普段目にし体験する日常とは少し異なっています。

 

 「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。」

 第1篇『神様』の冒頭です。あたかもそこに何の違和もないような風に人間たる「わたし」がくまと会話をし共に散歩に出かける様子が書かれています。また他の8篇においても、梨の妖精を飼ってみる(『夏休み』)、人魚に魅了される(『離さない』)、亡くなった叔父と会話をする(『花野』)、といったように現実世界ではありえない「日常」が描かれています。文庫版の裏表紙には「不思議な<生き物>たちとのふれあいと別れ」という表現が用いられていますが、亡者もいるので生き物と括ってしまうよりは「(不思議な)普通ならざるものたち」と言ったほうがより正確かもしれません。

 

話の一つ一つを読み終えた時には、和んだり、ぞっとしたり、少し切なくなったりと多彩な印象を受けます。文体は全体を通して淡々と柔らかい感じですが、時折下ネタが混ざってくるのがまたユニークです。


私のお勧めはやはり第1篇の『神様』。あらすじは先述のとおり熊と「わたし」が川原に散歩に出てランチを食べ帰ってくるというものです。それだけでも不思議なのですが、それ以上に不思議なのがこの『神様』というタイトルです。他の8篇に関してはその内容に関連したキーワードや場所、時期などが題になっていますが、『神様』だけは「神様」を連想させるものはなく、文中にも「神様」という単語は1度きりしか出てきません。何故この短編のタイトルは『神様』で、書籍そのもののタイトルにさえなったのでしょうか。

 

実をいうとその答えは第9編『草上の昼食』まで読むとなんとなくわかる、と思います(個人の解釈にもよるのではっきりとは言えませんが)。一度最後まで読んだうえでまた第1篇から読み直してみると、また初回とは違う観点から物語を読めるかもしれません。またこの『神様』に関しては、アフターストーリー的位置の『神様 2011』という本も発行されているらしいので、併せて読むことをオススメします。

 

悪い言い方をすれば、テーマはない。我々読者の心に大きな何かを主張してくるような本ではありませんが、淡くもほっこりと描かれる非日常的日常は読了後読者に抽象的ながらも確実にインパクトを残してくれます。

とにかく読みながら全てが夢のように感じられる、今の時期の春のうららかさに身を任せながら読みたい1冊です。 

(マツバラ)

               

『神様』川上弘美

中央公論新社 200110

 

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2013年

2月

13日

ルイス・サッカー「 HOLES」

 全米図書賞、ニューベリー賞など多くの賞を取った作品です。映画にもなっており、amazon等にもすでにレビューが沢山あるので今更私が紹介するまでもないかもしれませんが、それでも勧めたい一作です。私がこの本を読んだのは大学の授業の折でしたが、この本はすごい、と思いました。何がすごいかって、これだけよくできた話がアメリカでは9~12歳向けの児童書として売られているそうだというからです。

 

 主人公は上から読んでも下から読んでも同じ名前のStanley Yelnatsという少年です。Yelnats家は曾曾祖父の時代から代々呪われた一家で、Stanleyも学校でいじめられる毎日。ある日彼は犯しても ない罪で荒野の果ての少年更生施設に送られます。土地がからっからに乾いた灼熱の地でのStanley達少年の仕事は毎日1つ、大きく深い穴を掘ること。 施設の女所長のもと彼らはひたすら穴を掘り続けますが、ある時Stanleyは彼女が何かの目的をもって自分たちに穴を掘らせているらしいということに気 づくのです。

さらに話の軸はStanleyの他に、呪いの大元である一代目Stanley Yelnatsや、100年前のまだ湖が湧き緑豊かで人が住んでいたCamp Green Lakeの地へと移ります。小分けにされたチャプターごとにこの3つの物語が交互に進んでいき、何故Yelnats家が呪われることとなったのか、女所長が穴を掘らせる真の目的は何かが徐々に暴かれながら、ラストへ向けて話が一つに集約されていきます。

とにかく伏線回収がすごい。ラストに向かうにつれて「ああ、あれはそういうことだったのか」という驚きやひらめきが次々に起こり読者を楽しませてくれます。またもう一つの見どころはStanleyの成長です。呪われているということもありますが最初は太っちょで勉強もさえず根暗だった彼が、施設で出会った他の少年たちとの出会いを通して友情を知り、心身ともにたくましくなっていく姿に注目です。物語はどんでん返しののち大団円に終わり、ちょっとできすぎじゃない?とも思えるほどですが児童書としては陳腐さはまったくなく、すっきりとした気持ちで読み終えられます。洋書初心者にも最適の一冊です。

幸田敦子訳の日本語版も出版されていますが、単語もさほど難しくないので英語版を先に読むことをおすすめします。作中では言葉遊びと思われる点がいくつかあるのでそれを探しながら読むと楽しさも倍です。(マツバラ)

 

 

『HOLES』
Louis Sachar著 Yearling; Reissue版 1998年8月

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2013年

1月

14日

遠藤周作海と毒薬」

話はとある気胸を患っている男性が、町医者の勝呂医師と出会うところから始まります。町医者にしては優秀すぎるほどの腕に、不気味なほどぬくもりの感じられない手。勝呂氏を疑問に思った男性は過去の新聞記事から彼の素性を知ることになります。勝呂医師は戦時下に行われた生体実験の参加者でした。

戦争末期、医学生だった勝呂のいた病院では医学部長の座をめぐり権力闘争が起こっていました。闘争でやや劣勢だった勝呂の恩師・橋本は「点数稼ぎ」のため軍部と手を結び、外国人兵捕虜を使った生体解剖実験を行うことになります。軍の指令のままに実験を進める橋本、橋本の意とは異なる各々の考えを胸に実験に同行する医者や看護婦たち、そして良心の呵責を感じながらも実験を傍観する勝呂。それぞれの立場から生体実験への思い、そして罪への意識が描かれています。

 

みなさんは罪悪感を感じたことがあるでしょうか。子供の頃吐いた小さな嘘、ちょっとしたイタズラ、何でもいいのです。どうして罪悪感を感じたのでしょうか。あるいは、どうして何も感じなかったのでしょうか。

生体実験に参加した者の半数以上は特に罪の意識を感じなかった側の人間でした。なぜ彼らは人の命に係わる残忍な実験に参加したのに何とも思わなかったのか。

理由の一つに「当事者が自分だけでないこと」があげられます。自分だけのせいではない、だから自分は悪くないという他人への罪のなすりつけが無意識のうちにも起こるのです。これは今の社会にも当てはまることであり、例えば多くのいじめが1人対1人で起こっているわけではないことがあげられます。いじめられっ子に直接手を下す者、いじめっ子を手伝う者、端から見ている者、それぞれが当事者でありながら自分だけが当事者ではないことから、自分以上に罪の重い者を探し、自らの罪を棚上げにしてなかったことにしているのではないでしょうか。

さらに作中での生体実験は当時権力の頂点たる軍部がバックについています。強力な権力に強いられて行った実験ならば仕方ないから罪を感じなかった、という理由もあるでしょう。しかしここに軍部(=権力)が介入していなかったらどうでしょうか。結局人は自ら罪意識を抱えるのではなく、世間体を気にした「恥」の延長として罪を感じるのかもしれません。

もちろんこれらは単なる推論にすぎませんし、罪への意識は人それぞれです。自分はどう感じるだろうか、また自分が作中の実験に関わる立場だったらどうか。やや難しめの本ですが、読者たるみなさんそれぞれがその点について考え、自分なりの答えを模索しながらこの本を読んでほしいと思います。

(マツバラ)

『海と毒薬』遠藤周作

新潮文庫 19607

 

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2012年

12月

15日

乙一『暗いところで待ち合わせ』

 文庫書き下ろし用として書かれたこの作品は2006年に映画化もされており、そちらを見たことがあるという人もいるかもしれません。

 

とある駅のホームで殺人事件が起き、その犯人として警察に身を追われる大石アキヒロ。逃亡犯となった彼は、駅のすぐ近くで独り静かに暮らす盲目の女性・本間ミチルの家に逃げ込み、居間で身を潜めます。見知らぬ誰かの気配に気づいたミチルは危害を加えられることを恐れ、気づかぬフリをし、いつもどおりに振舞おうと決めました。そんなアキヒロとミチルの奇妙な約2週間の「二人暮らし」が2人それぞれの視点から描かれた物語です。

この小説を何か特定のジャンルに分類することは難しく、むしろ複数のジャンルのテイストが織り交ぜられているというのが正しいでしょう。殺人事件に重きを置いて読めばミステリーですし、アキヒロとミチルの生活・関係に重きを置けばほのぼの系、或いはロマンスといえるかもしれません。アキヒロは職場での人間関係がうまくいかなかったことから、ミチルは自分の目のことから、2人には他人に怯え独りを好むという偶然の共通項がありました。そんな2人が互いの存在を認識し、心の距離を少しずつ縮め、精神的に成長していく姿には、喩えるならば、突然の停電の中で手の感覚だけを頼りに辺りを探ったときふと誰かの指先の温もりに触れるような、わずかな不安の入り混じるあたたかさを感じます。私は是非その点に注目して読んでほしいです。

ひとつ残念なことは文庫のカバーデザインです。登場人物に盲目の女性がいるのに表紙は目がぱっちりと少し怖いくらい大きい女性になっており、表紙だけを見ると、タイトルの雰囲気もあいまって必要以上にホラーチックになってしまっています。

実際の内容にはホラー・グロテスク表現は一切ないので、今まで表紙で敬遠していた方もそうでない方にも一読をおすすめします。

(マツバラ)

『暗いところで待ち合わせ』乙一 

初版 幻冬舎文庫 20024

現在は『失はれる物語』 (角川文庫)GOTH 夜の章』 (角川文庫)などに収録

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2012年

11月

13日

瀧羽麻子『うさぎパン』

 

2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞した作品です。

主人公はお嬢様学校育ちでパンが好きな高校生の優子。物語は大まかに二分することができ、一つはパン好きという共通項を持つクラスメイトの富田君との話、もう一つは家庭教師の美和ちゃんや優子の義母のミドリさん、そして美和ちゃんとの出会いをきっかけに出会ってしまった「ある人物」との話で、恋愛、友達、家庭、あらゆる面から優子と彼女を取り巻く人物たちの日常が淡く優しく描かれています。

 

作中のテーマの一つとして「人や物事を好きになるということ」があげられます。

誰にでも好きなものがあると思います。好きなものが数えきれないほどあるという人もいるかもしれません。例えば遊園地と体育の時間が好きだとしましょう。なぜ遊園地が好きだと思うのか?楽しいから。なぜ楽しいと思うのか?色んなアトラクションで遊べるから。なぜ色んなアトラクションで遊べると楽しいと感じるのか?じゃあ遊園地と体育の時間ではどちらの方がどれくらい好きか?――――

こうして何かを好きであるということに対してなぜ?どうして?どのくらい?という問いかけを重ねていくと、必ずどこかで「知らないよ!好きなものは好きなんだからしょうがないでしょ!」と考えることを放棄したくなる時が来はしないでしょうか。私はなります。それでいいのです。

何かを好きになるということには必ずしも論理的な理由がないといけないわけではない。また好きなものが増えていくということはその好きなもの一つ一つに向ける感情の熱量が減るということではなく、すべてのことを最大限の力で愛することも可能である。それは理不尽と思う人もいるでしょうし、主人公の優子もそう思っている一面が見られますが、それらの理不尽さが許される、そういう優しさがこの物語には含まれています。

 

また幻冬舎から出ている文庫版には美和と彼女の友人桐子を主人公にした書き下ろし小説「はちみつ」も収録されていて、1か月前の失恋から立ち直れずにいる桐子の視点から物語が描かれ、「好きになる」ということの中でも恋愛面に焦点があてられています。

 

文量は多くはなく2時間もあれば読み終えられる程度で文体も淡々としているので、何かの受賞作であると期待して力んで読み始めると拍子抜けするかもしれません。通学通勤の時間や学校の休憩時間に休憩気分で読むことをおすすめします。

ただし読んでいるとパンが食べたくなるのでご注意を。

(マツバラ)

『うさぎパン』

瀧羽麻子 ダヴィンチブックス 2007年(幻冬舎文庫2011年)

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